『聞こえる調べは美しい。聞こえぬ調べはさらに美しい』
……ジョン・キーツ「ギリシアの壷に寄す」

 夜の平穏は取り戻された。城攻めの軍勢は蹴散らされ、静寂を脅かすものは何もない。

 急峻な峰々の間を数少なとなった松明の灯が下っていく。城を取り囲み蠢いていたあれだけの炎の群れは、次々に闇に飲まれ消えていった。いったい、いくつの命が失われたのか知れない。

 ほのかに揺れる蛍火ように、ついえていった数多の魂。その儚さを嘆息することもなく、冷ややかな目で窓外を眺める少女がいた。何かを追い求めるかのような視線は定まることなく闇の帳の上を揺れている。

 ――それなのに、彼は帰らない。

 行ってしまったのだ。この地をあとにして。それが少女自身のためであることは分かっていた。彼女の幸せを何よりも、そう、世界中の何よりも大切に考えてくれる、あの人なのだから。二人の絆を守るための何かを探し求め、ただ一時、彼女の下を離れたのに違いなかった。
 たとえそうだとしても……少女の心が安らぐことはなかった。豪奢な調度品に取り囲まれ、飾り立てられた衣服を身に付けていようとも、この手を握ってくれる彼の優しさには代え難い。

 

 エイミは思い出す。この地に流れ着くより以前、西の地で暮らしていた日々のこと。そして彼が長い旅から戻ったあの日のことを。
 旅先で深い太刀傷を負った彼は即刻、床に伏せった。それがただの傷ではないことは一目で理解できた。爛れた傷跡は異様な臭気を放ち、幾日を経ても癒える様子を見せなかったのだ。そして傷口をぬぐった時、彼女の手にべったりと張り付いた液体の色。黒に限りなく近い禍々しい血潮の色が、その異常さを裏付けていた。
 やがて彼の身体が持ち直した時、その変調は完全に彼の肉体を蝕んでいた。そして付ききりの看病に当たっていた彼女もまた……闇からにじみ出した影に浸るうち、同じ色に染まってしまったのだった。邪剣ソウルエッジの力のこと、イヴィル化と呼ばれる現象のこと……彼の話を聞くころには彼女も理解していた。もはや二人が人の領域からはみ出してしまったことを。

 身体の内側から異質なものへと変わっていく感触が記憶から蘇り、エイミはそっと眉をひそめる。日の光を避け、人知れず夜ごとの渇きを満たす暮らし。それも良いだろう。彼が傍にいてくれるのなら。そう思っていた。

『エイミ、私はしばらく戻らぬが、良い子にしているんだよ……』

 彼はそう言った。――けれど。彼女は静かに思う。普段は戒めを守る雛鳥も、親のぬくもりに焦がれたのならば独り飛び立ちもするだろう、と。

 

 もう一度、エイミは窓に身を寄せて闇に染まりきった外界を見渡した。

 ――邪剣ソウルエッジ。彼は再びその力を追い求めて行ったのだろうか?

 そっと窓辺を離れると、微塵も音を立てず、ごくゆっくりとした足取りで暗がりに沈んだ部屋を横切っていく。わずかにうつむいたその顔にはいかなる情感も浮かんでいない。

 いくつの夜を彷徨うことになるだろう? 冷たい夜風に吹き流されてゆく一羽の蝶。天を離れ孤独に流れる星のように。あらゆる重みから解き放たれた魂のように。

 すべてを内に秘め、何者にもうかがい知れぬ表情のまま、彼女は静かに扉を押した。


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