『死よ、おごるなかれ。
人は言う、お前は強く、おそろしい。
そんなことなどありはせぬ!』
……ジョン・ダン「聖なるソネット X」

 ヒルデガルド・フォン・クローネは冷たい鉄格子を前にして頭を垂れた。

「父上、行って参ります。
  約束致しましょう、我らが王国の勝利を。我が名に誓って、必ず」

 返答はない。ただ理性の断片すら感じられない獣じみた唸り声があがったのみである。狭い石造りの部屋に、灯火の類は一切見当たらない。夜ごと訪れる慈悲深い月だけが、高窓からごく薄い明かりを投げかけている。

 人目を避けての謁見だった。謁見、と称して良いものだろうか。塔の最上階にひっそりと設けられた一室。そこに監禁されているのはヴォルフクローネ王国の現国王――すなわちヒルダの父親だった。武人であり、優れた国王でもあった父の姿はない。狂気の霧に迷い込んだ父王は、眼前にひざまずく娘を我が子と認識することすらできなかった。

 あの日――災厄の光が王国を撃ったあの日から――父は父でなくなり、ほんの小娘でしかなかった彼女が国の舵取りを担うこととなった。周囲の力添えを得て、どうにか国政を維持してきた。護国の任を一手に担い、蒼騎士率いる異形の軍団の侵略を食い止めた。必死の鍛錬を続け、戦に明け暮れた少女時代。

 何度挫折しそうになったことだろう。詮なきことと分かっていながら、考えずにはいられない。厳格でありながら優しく、良き父親であった、かつての王がいてくれたらと。だが、王国を統べる身である彼女がそのような弱音を吐くことなど……許されはしないのだ。
  だからこそ、なのだろう。こうして父と二人きりでいる時には、すべてを忘れ、弱い自分をさらけ出してしまいたくなる。父親の庇護に甘え、不安に怯える、弱々しい小さな娘に戻りたいと、そう願ってしまう。

 いや――。彼女は顔を上げると、静かに立ち上がった。

 あの頃とは違う。父が戯れに剣の稽古を付けてくれた、幼い少女の頃とは違うのだ。今――ヒルダが振るう剣は邪に染まった者どもを引き裂く稲妻であり、手にした槍には多くの勇士達を奮い立たせる王家の旗印がひるがえる。彼女は強くなった。この王国を束ねることができるほどに。ただ変わらぬのは、建国以来、王家が継承してきた狼の高潔さだけである。彼女もまた、それを父王から受け継いだのだ。

 祈りの言葉を呟いた彼女は、父の姿を目に収めると、踵を返して出入りの禁じられた部屋を後にした。扉の向こうから人のものとは思えない金切り声が発せられたが、そのおぞましい響きに彼女が肌を震わせることはなかった。

 

 出陣に先立って、身を清めねばならない。

 沐浴は独りですることにしている。生傷が絶えない裸身を晒すのが辛いというよりは、世話をする者達がそれを目にして悲しげな表情を見せるのが嫌だったからだ。氷のように冷たい水を素肌に受けるたび、頭の芯までが引き締まるようだった。

 夜明け前のひと時、中庭は静寂に沈んでいる。ささやかな儀式に付き添ってくれた月も、まもなく沈むだろう。夜は奴らの時間だった。日没とともに廃城オストラインスブルクから姿を現す脅威。夜襲の恐怖は国中を覆っている。今この瞬間も、多くの勇敢な兵士達が夜警に従事しているのだ。
  荒廃した国土のことを思うと胸が締め付けられる。かつての豊かな土地の情景。それを取り戻すこと。臣民達の期待に応えなければならない。平時は農耕にいそしむ者達も、今は手に剣を取り、立ち上がっている。

 その時は近い。変潮の予感があった。彼女はここ最近、立て続けに起こった変異に思いを巡らせた。偵察に出た部隊が目撃したという不可思議な光景。禍々しい光を放つ無数の物体が、まるで巣穴に集結する蜂の群れのごとく廃城へと飛来したのだという。そして、あの男との邂逅……。

 清めを終えたヒルダは中庭を後にして自室へと入った。何も言わずとも、供の者達が戦支度に手を貸してくれる。

 数日前、ヒルダ達はヴォルフクローネ領内で旅の傭兵団を助けた。彼らの多くは廃城の住人達に襲われ命を落としていたが、その生き残りである一人の女から、ヒルダは気にかかる情報を聞き出したのだ。
  ジークフリートという名の男がたった一人で魔都へ乗り込み、蒼騎士の軍勢に立ち向かおうとしている、というのだ。助力を申し出、そして断られたと寂しげに呟いた女は、己の力不足を嘆き、彼の命を救ってくれとヒルダに懇願した。すぐさま配下の者を放ち、かの男を捜索させるヒルダ。志をともにする者を無駄死にさせるわけにはいかない。
  ほどなくしてヒルダはジークフリートの所在を掴み、オストラインスブルク郊外で会合を取り持つことに成功した。だが冷たい結晶に覆われた鎧を身に着けたその男は、ヒルダの言葉を一蹴した。
  これは自分の戦いであること、誰にも邪魔されたくはないということ、もはや救いを求めようとは思っていないこと……言葉少なにそれだけを語った彼は、ヒルダの元を去った。不思議と怒りは湧かなかった。それだけの何かが彼の後姿にはあったのだ。

 ヴォルフクローネの守護獣である狼をかたどった銀鎧は、蝋燭の灯りを照り返して燐光を放ち、重々しい存在感を示していた。一つ、また一つと具足を身に付けていく。その決して軽くはない重量を身体に感じるたび、国を御する者が負わねばならぬ責の重さが実感される。
  全身を覆う銀の甲冑。年頃の娘らしからぬ装いではある。だが彼女は恥じらいはしない。この戦装束こそが彼女にとっての盛装であり、きらびやかなドレスに着飾っているも同然なのだから。

 ――兆し、なのだろうか? 迷いがないと言えば嘘になるだろう。確信などありはしない。しかし、何かが起ころうとしている。機は今にこそあるのだ。自分に未来を見通す力があればよいのだが。野に遊ぶヴォルフクローネの子供たちが、夕染めの雲の色あいと風の香りから明日の天候を占うように。

 がちり、と籠手の留め金が硬い音を立てた。

 いや、信じるよりあるまい。曙光はすぐそこまで来ていると。果てなく続くと思われた悪夢の夜に、ついに終わりの時が訪れるのだと。

「姫殿下。親衛隊以下の全軍、城門前に揃いましてございます」

 報告に現れた臣下の顔を見やることなく、ヒルダはよく通る声で指令を下す。

「よし。各自、出陣に備えて待機せよ。夜明けとともに打って出る」

「御意に」

 一礼して辞した臣下の声にも、いくぶん興奮の色がにじんでいた。

 己が運命は知らず、ただ決意をもって臨む者だけが道を切り拓くべし。古い教訓を心の内で反芻したヒルダは、兜を脇に抱えると、頭を下げる供の者達を後に残し、力強い足取りで自室の敷居をまたいだ。

 

 夜が明ける――。

 東の空が薄く色づきはじめ、夜露はその消えゆく時を期して震える。まもなく城門前に整列したヴォルフクローネ全軍の偉容が朝日に浮かび上がることになろう。統率の行き届いた軍にあって、あえて静寂を破ろうとするものは、日差しの予兆にいななく馬達と、せわしなく行き来する伝令ばかりだった。

 鎧兜に身を固めた頼もしい勇士達を馬上から見渡し、ヒルダは一つ息をついた。張り詰めた緊張と静かなる高揚が、嫌が応にも伝わってくる。見送りに駆け付けた多くの臣民達も、各々が少しづつの勇気をくれる。
  大仰な演説などは必要あるまい。ヴォルフクローネの民は皆、ずっとこの時を待っていたのだから。誰しもが知っていた。命運を決する時が来たのだということを。

 と、ヒルダの馬に近付く者があった。件の傭兵団の生き残り、サリアという名の女だった。いまだ傷が癒えていないのだろう、おぼつかない足取りでヒルダの元へと参じた彼女は、短く祝福の祈りを捧げると、小さな首飾りを差し出した。

「これを、彼に……」

 ヒルダは無言で頷くと、その品をしっかりと受け取る。ここにもみずからの希望を託そうとする者がいる。その想いを無駄にはするまい。

 顔を上げ、天を仰ぐ。光の一筋が、山あいから出でて野を駆けた。

「出陣――!」

 ヒルダの号令を受けて角笛が響き渡り、それに呼応してあがった雄叫びが、海原を渡る波のように、群れをなす王国の戦士達へと次々に伝わってゆく。鬨の声に応え、彼女は手にした槍を高く掲げた。暁光に浮かび上がる記念塔を背にして、ヴォルフクローネの象徴である王国旗がひるがえる。

 輝かんばかりの誇りに満ちた旗槍とその使い手は、夜を祓う光となって王国を真の夜明けへと導くだろう。

 


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