『暗黒のなかでは我々の想像力は、明るい光におけるよりもたくましくはたらくのを常とする』
……カント「万物の終り」

 神を討つ――。自身の境遇に絶望し、湧き上がる憤怒に身を任せた男は思った。信徒を見捨てた神など到底許してはおけぬ。彼はすべてをなげうって事を成す覚悟だった。もはや失うものなど何もないと思えた。しかし……彼に課された運命はよりいっそう残酷なものだった。

 異形なるものとなった彼の肉体は、精神すら侵しはじめていた。人であろうとすることをやめた瞬間から、少しずつ、少しずつ、彼の胸の内で獣の心がその版図を広げていく。徐々に失われていく人間性。本来繊細であったはずの情感はいかにも粗雑になり、心動かされるということのない冷血なる存在へと堕していく。

 人としての記憶も次々に失われていった。過去に出会った友人やぬくもりを与えてくれた家族達。大切だったはずの思い出が霧散していく。だが次第に、それを気に掛けることも少なくなっていった。
 枯れ果てた樹木の表皮が一片一片と剥がれ落ちていくように、記憶の断片はとどまることなく散り去っていき、決して浮かび上がることのない奈落へと落ち込んでいく。そしてやがて……アイオーン・カルコスというかつての自分の名前すら、忘却の彼方へと手放してしまったのだった。

 知らず知らずのうち、彼の下には同類である獣人達が集うようになっていった。彼らもまた邪教集団の手により改造された怪物であり、教団崩壊ののち、寄る辺をなくし散り散りになっていたのだ。元は人間であった彼らもいわば犠牲者であり、以前の彼ならば共感を抱いたのかもしれない。しかし今、彼が考えることはただ一つ……自分と同類のリザードマン達、いずれの力が勝っており、いずれがいずれを支配するに値するのか、という獣の打算のみだった。
 その点において、彼にかなう者などあろうはずがなかった。強靭な体躯、頭抜けた戦闘技術……無言のうちに発せられる威圧感は彼の力を知らしめるに不足はなかった。そして、これまで命令を受けることでのみ行動を定めてきたリザードマン達もまた、強き主を求めたのだった。獣には獣の掟がある。無駄な血の一滴も流れることはなかった。

 過去にも蠢く獣人どもを統べ、多くの魂を狩ることのあった彼だが、今はいかなる目的も持たず、本能の赴くままに行動するばかりだった。残忍な衝動に身を任せ、奪うために奪い、殺すために殺す。邪神教団のくびきを解かれ、神に牙を剥いたと言えども、理性の手綱なくしては野放しの獣に過ぎなかった。夜闇に乗じて人畜を襲う異形の群れは疫病のような災厄と同様に恐れられ、やがて人々の噂にものぼるようになっていった。

 

 ――それは決まって眠りの途切れがちな真夜中に起こった。

 ふと目が醒めると、人間としての感覚や記憶が蘇っていることがあるのだ。そんな時、彼は自分の置かれている状況に愕然とする。悪夢のように混沌とした現実。いったい何の間違いなのか。記憶を探っても、ひたすらに虚ろな空白が広がっているのみ。考えをまとめようとするが、そのための言葉さえ大半が失われている。さながら虫に食われた書物のように、語彙の欠落した思考の流れは意味を成さない。強烈な焦燥感が彼を苦しめる。必死に思い出そうとするが、自分が何者なのかすら分からない……。

 もはや手遅れだった。修復し難い割れ目から水を漏り、空になってしまった水瓶のように、彼の記憶はそのほとんどが抜け落ちてしまったのだ。ただ何かを失ってしまったという空虚な感覚だけが、絶望的な焦りをともなって彼を駆り立てる。
 何かをなくしてしまったのだ。命と同じくらいに大切な何か……。その言葉が思い浮かばずに苦悶する。醜悪なあぎとから耳障りなあえぎ声が漏れ出し、思わず身震いする。……いや、まて。思い出せそうだぞ。

 そう……「魂」だ。俺の魂はどこへ行ってしまったのだろう? がむしゃらに記憶を探って辿り着いたのは、水瓶の底に残った最後のひとしずく。それはかつて彼が抱いた執念の残照を受けて輝いていた。ソウルエッジ。その名がひときわ明るく脳裏に浮かぶ。そうだ、そこに俺の魂がある……! 魂のありかを思い出せたことに狂喜し、ともすれば薄らいで消えかねない記憶をとどめておこうと、その言葉を繰り返す。魂。ソウルエッジ。魂。ソウルエッジ。魂。ソウルエッジ……。
(アァ、オレのタマ…シイ。サガそう。ヨがアけたのなら)
 最後にそう考えた彼は、一息に脱力するとまぶたを閉じて眠りの淵へと落ちていった。

 だが彼が再び目覚めた時、人間としての思考と記憶はその一切が失われているのだ。ただ一つ、人の心が残した一途な望みだけは――獣となった彼の心をも動かすだろう。


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